キムが語る スクラッチジャズストーリー

 【黎明紀】振り返れば30数年前、鹿島に来て間もない頃だった。当時は鹿島開発の最中で、若い人たちで街は活況を呈しており、若者はそのエネルギーのはけ口を求めていた。しかし、文化やスポーツなどの施設やサークルはまだまだ未整備状態で、発散しようにも発散出来ないストレスがあったように思う。私もあり余る時間と、音楽がしたいという欲求から、仲間たちとロックバンドを結成し、念願の中央公民館(現鹿嶋市三笠公民館)3階の大ホールでのコンサートを開催していた頃である。年に数回のコンサートは、毎回立ち見が出るほどの観客と熱気、そして演奏者と観客の間に、大きな一体感があったように思う。みんな音楽に飢えていたのだ。

[遭遇紀]

当時、そんな辺境の地鹿島にもグランドキャバレーなるものが2~3店あったという。そして、仕事(演歌歌手のバックバンド)を終えたバンドマン達が集まり、連日連夜朝までジャムセッションを繰り広げていたというのだから驚きだ!(当時は、ジャズの世界だけでは生計を立てていくのは非常に厳しい時代で、キャバレー等で、アルバイトをしていたジャズマンが多かったという)

そんな時期に、男女の出会いの場として大流行していた「ダンスパーティ(ダンパ)」のバンドとして、私たちには出演依頼が毎月のようにあった。その中のクリスマスパーティの大イベントを終えた私は、打ち上げに指定された場所に、10名ぐらいで衣装(蝶ネクタイと襟広のスーツ、ロングコートに白のマフラー)のまま連れて行ってもらったのが、大船津のスクラッチであった。その頃は「LOVE」という名前で、お店の中はカウンターが5席ぐらい、テーブル(ある電工会社のケーブルドラムをそのまま横にしたやつ)が3つ4つ置いてあった。お客さんがけっこう詰まっていて、店内はかなり賑わっていた。

「おぅ、いらっしゃいっ!」野太い声はマスターの声だった。

カウンターの中には「目玉が大きい」「顔がでかい」「唇が厚い」「アフロみたいな髪の毛」・・・・第一印象は「怖い人」そのもの。オーダーを頼んだところ、奥からものすごい美人が登場してきた。

「目が綺麗」「顔が小さい」「色が白い」「スタイル抜群」「ワンレンの黒髪」・・第一印象は「こんな美人が鹿島にいるの?」思わずマスターの顔とママの顔を見比べていた。

ママもステージ衣装のままの私たちを驚いたように見渡していたが、後で聞くと大勢のホスト(笑)が、なんで鹿島くんだりに来てるのかしらと思ったらしい。気がつけば、お店の片隅にエレクトーンが置いてあったので、私はサンタナのBlack-Magic-Womanか何かの一節を弾いてみた。故障していたようで良い音ではなかったが、マスターはとても喜んで「次回までには修理しておくから、いつでも来て弾いてくれや」。私がスクラッチのハウスピアニストに任命された瞬間であった。

【活動紀】

時は流れ、お店もマスターの設計で新装、「SCRATCH」と命名された。店の中央にはグランドピアノがデーンと置かれ、ピアノのまわりにカウンター席がある洗練された雰囲気。

以降この店は、鹿島の音楽シーンにかかわったものたちの交流の場として、また鹿島では初めてのジャズライブも開催し、文字通りライブハウスのさきがけとして、貴重かつ重要な拠点となっていくのである。

私は、土曜日夜の弾き語りの約束をさせられて、ほぼ毎週のように弾いていた。ときにはマスターの渋い歌声でのブルースを伴奏することもあり、今で言えば綾戸ばりのハスキーボイスにビブラートをかけた独特の雰囲気にみんなが酔っていた。ピアノのカウンターにいるお客さんの顔が、ホントに目の前にあって、譜面やら鍵盤を覗き込むほど。最初の頃は緊張で失敗ばかりだったが、舞台度胸をつける意味では大いに役立った。以来、私は人前で全くアガらなくなってしまったようだ。

【激変紀】

マスターの顔が膨れてきているのに気づいたのはその頃だったが、もともとが大きい顔でもあり、長年見慣れている私は、飲みすぎでむくんでいるのだろう、さして心配はないだろうと高をくくっていた。しかし、日毎に調子の悪そうなマスターをみるたび「お酒はひかえてよ」とは言ったものの心配であったが、××年の夏に体調が急変し、自分で運転して医者に向かうとき、ついに気を失ってしまったのか道路を飛び出して大破した車と共に、帰らぬ人となってしまった。

知らせを受けたお葬式のとき、常連の皆さんと主を失ったお店でお別れ会をしたのだが、気丈にもママは「音楽がいつも鳴っていたほうがあの人も喜ぶわ」と言いだし、私にピアノを弾けと命じた。正直言って悲しみの最中での演奏なんか出来ないと思ったのだが、常連さんたちが「これも供養だっぺ」「気にしねーでいいからピアノ弾いてくれや」「みんなで歌うべーよ」と盛り上がってくれて、マスターの好きだった曲を夜が更けるまで何曲も弾いたことを思い出す。

【復活紀】

お店をどうするのか、ママには重大な選択が待っていたが、当時小学生の愛娘を育てるためと、マスターの気合と魂が残るお店を閉めたくないという熱い思いから、お店を続ける選択をしたのだという。もし、このときお店を閉めていたならば、いわば第2世代ともいえるSTONE氏たちの活躍や、著名なミュージシャン達の名演奏をもたらした数々のジャズライブは実現しなかったはずだ。そう思うとママの選択は、鹿島のみならず近隣地域のジャズ音楽の活性化に、大きく寄与しているのだと、私は大いに評価したい。彼女の選択は間違っていなかったのである。

私もこの時期、ロックからフュージョンへ、そしてジャズへと自分の音楽志向を変えつつあったときだ。Drumsのモンキー小林(小林陽一)さんや、Bassの中山英二さんなどの素晴らしいライブを見つつ、エバンスのピアノに傾注し、自分もジャズコンボでこの店に立ちたいという願望をかなえさせてくれたのはママである。

「いつまでも練習ばかりしてないで、うちの店でライブやりなさい!」この一喝で、ウジウジしていた我々は覚悟を決め、念願のジャズデビューをこの店でさせてもらったのである。いまでもお店のトイレにはその当時の新聞の切抜きが貼ってある。

ライブで酷使した初代のグランドピアノは、ちょくちょく弦が切れたり調律が困難になってきていた。ママに「ピアノ買い換えたら?」といったら、「うん!そうしよう。中古で良いのあったら探してきてよ」ときた。太っ腹(最近はホントにそうだが)な人だ。かくして二代目のグランドピアノが無事鎮座し、言いだしっぺの私は更なる活動を余儀なくされることになった。

【展開紀】

マスター亡きあとのお店を切り盛りし、鹿島でのジャズシーンの変遷を見守ってきたママは、演奏者側として同じ道を歩んできた私にとって「仲間」というような安易な関係ではなく、「戦友」と表現したい人である。ご当人も「まんざら」でもなさそうで、このスクラッチの歴史について書けと命じたことから推測するに、私を「お客さん」としては見ていないことに、感謝すべきなのであろう。

最近仕事の関係で私は東京に単身赴任の毎日である。以前のように、ちょくちょくお店に出かけられない日が続いており、戦友には申し訳ない気持ちだが、お店のライブスケジュールを見ると、定期的に素晴らしいミュージシャン達が出演しており、ママは着実に頑張っているようだ。しかも、一昨年に入り口の土間をコンクリートで埋め、ステージが俄然広くなったしピアノを移動したのが功を奏したか、音響がとても良くなったと評判である。

私も東京で有名なライブハウスに行けばいいのであるが、この「SCRATCH」でライブを見るから良いのである。その方が絶対に楽しいのである。戦友の痛烈な批評を聞きつつ勉強するのである。そして自分のジャズピアノを磨くことを忘れてはいけない。STONE氏の熱心な音頭で、年2回の恒例になりつつある「SCRATCH-Session」には、皆さんの足を引張りながらも、「SCRATCH」でピアノを弾けることを、無上の楽しみとして、心待ちにしている私なのである。

SCRATCH 初代ハウスバンド ピアノ奏者 キム